愛される学校づくり研究会

【第1回】今日も真剣勝負


1 参りました

ある日の授業です。(T:私 C:生徒)

「目をつぶって、頭の中に四字熟語を一つ思い浮かべてみてください。」
(素直に目をつぶって考えている。)
「同じことをします。目をつぶって、もう一つさっきとは違う四字熟語を思い浮かべてください。」
(何だ?という顔つきで考えている。)
「目を開けていいですよ。実は今、心理テストをしたのです。」
「えーーーー!何のテスト?」
(そーーっと)「一つめに思い浮かべた四字熟語は、あなたの人生をあらわします。」
C1 「ひぇーーー、オレ七転八倒にしてしまったーー!」
C2 「オレは一石二鳥だね。イエーイ」
C3 「こいつサー、自給自足だってー!」
(ひとしきり話している。)
(しばらく待つ)
「先生、もう一つは?」
(「待ってました」なんだけれども、わざと静かにゆっくり)
  「二つめに浮かべたのは、あなたの恋愛をあらわします。」
C1 「やった!百発百中だ!!」
C2 「自業自得だって。やばいよー。」

しめしめ今日の授業のつかみは予定通り。考えてきたことに生徒は見事にはまったのである。私は内心ほくそ笑む。
 しかし、その思いはすぐに変化する。

「□に漢字を当てはめて四字熟語を完成させましょう。□挙□動は?」
C1 「わかった、選挙活動だ!!」

やられた。そうくるとは思わなかった。生徒の発想に脱帽。そんなやりとりが私は大好きだ。こちらが考えなかったようなことを生徒が言ってくれると、もう嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。

 これは、「言葉の学習」を楽しくやっていたときのことだが、もっともっと嬉しいのは、「読みの学習」の時間である。一つのテキストをみんなで読む。生徒も私も一緒になって読む。私は予想される生徒の反応を精一杯考えて指導を組み立てる。だが、どんなに一生懸命考えても、いつも生徒に負ける。こちらが思いつかなかったすばらしい発言をしてくれるのだ。かっこいい言葉ではない、飾られた言葉でもない、生徒の心の中から絞り出されてきたほやほやの言葉、それを聞くとき、私は「やられた」という思いと同時に「参りました」という思いで、心が温かくなる。


2 授業は真剣勝負

私はよく生徒にこう言う。

 「私にとって授業は命です。そのくらい授業に対して真剣に臨みます。みなさん、私と授業で勝負しましょう。」

 この言葉を言うことはとても怖いことだ。言った以上、手は抜けない。だからこそ、私の偽りのない言葉として生徒に語る。そして、授業という試合の場に臨むにあたって、労力を惜しまない。時間もかけるし、必要ならばお金もかける。では、どのようにして授業を考えるか、それは次の通りである。
 まず目の前にいる生徒の現状を把握する。何ができて何ができないか、今、何が必要か。そして、将来に向けて何をすべきか。  次にテキストを研究する。いわゆる「教材研究」である。教科書にあるから使うのではなく、先の生徒観に対してそのテキストのもつ意味を慎重に考え、そのテキストのもつ力をくまなく分析する。

 その二つができたら、こういう生徒たちにこのテキストを通してどんな力をつけたいかを考える。その時私の脳裏に浮かぶのは、決して生徒の「今」ではない。もっと先、時には生徒たちが大人になったとき、その時にどんな力がついていればよいかを考えている。つまりは、目の前の生徒たちがそのテキストとかかわり、どう変化するかを想定するのである。
 こんな変化が起きるといいなという目標が定まったら、それに向けた指導方法を考える。時には楽しく、時には厳しく。ちょっとハードルが高いかなと思うようなことも挑戦のつもりで「えいっ!」と取り入れる。

 そして、いよいよ授業開始。これは無理かもしれないとこちらが思っていても、案外生徒は易々と乗り越えていく。さらには、先述したように、私の予想の範ちゅうを超えた生徒の発想が飛び交い、目からうろこ状態。こんなときは最高に幸せを感じる。

 授業にはワークシートを使用する。毎時間回収して毎時間生徒の学びを確かめる。そこには、授業では発言されなかった生徒の考えも発見される。生徒一人ひとりの振り返りも記されている。次の時間までにそれを読み、コメントを返す。
「この考え、いいなーー、次は言ってよ。」
「今日は、調子悪そうだったね、何かあった?」など。
 授業で勝負してくれた生徒とワークシートを通して対話するのである。

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とまあ、準備から振り返りまで、授業に関して費やす時間はかなりかかる。しかし、私の生活の中でこうしているときは「至福の時間」。楽しくて仕方がないからやれるのだと思う。(周囲からは変人扱いされるが、本人は至って感じていない。)


3 めざす授業

「○○について考えながら読みましょう。」
(個々に読み、個々の考えをつくる)
「聞かせてください。」

ある生徒が自分の読みを語る。それについて、同じ立場や違う視点からの意見が続く。生徒は、仲間の意見を聞きながらさらに読み、考え、話し、深める。これを繰り返す。生徒が意識しない間に目標に達している。
 教師が多くを語らずとも、生徒自身の読みによって全体の学びが成立していく。このような授業がしたいと考えている。もちろんこういう授業は、すでに何人かの先生方が実践されており、私も拝見させていただいたことがある。ただ、私の知る限り、小学校での実践が多い。私は中学校の国語の授業で実践したいのだ。

 小学校も中学校も基本的には変わらない。もちろん、物理的な違いはある。中学校では国語の時間は週に3時間、しかも時間割は決められてしまうのでクラスによって継続性に違いが生じる。あるクラスは月・火・水と連続して国語があり、木・金・(土・日)とお目にかかれないこともある。それに、生徒たちにとって私の授業を受けるのは、9教科分の1でしかない。さらには、学年があがるにつれて長くなる文章。(例えば「故郷」は教科書約20ページ分もある)。限られた時間の中で、めざす授業を行うのはとても苦しい。しかし、学年があがって生徒たちの生活経験が増え、心の発達が進むのだから、仲間とかかわって主体的に学ぶ授業が必ず可能だと考えている。


4 応時中の生徒に感謝

応時中学校に来て3年経った。1年目は2年生、2年目はその積み重ねで3年生を受け持った。昨年度の卒業生である。彼らとの出会いは衝撃的だった。

「『春に』を読んで何を感じるかな?」
「別に・・・。この作者おかしいんじゃない。」
「感じたことを班で伝え合おうか。」
「えー、いやだー。言いたくない。」

それから2年。話し合ったり、伝え合ったり、そんな経験を毎時間繰り返す中で、彼らは自分も含めた多くの仲間から学びあう楽しさを覚えてくれた。毎時間提示される難しい学習課題にも、自分のめあてをもって臨めるようになった。卒業間際、一人の生徒がこう書き残してくれた。

国語の授業を受けてきて、僕は今までは国語というのは、文があって字があって筆者の考えがあって、それを読みとって、その種類や用法や構成を考え自分はどう思うのかを問われる学問だと思っていたが、先生の授業を受けてきて、それだけでなく、自分の考えを人と交わし、高め、さらに自分の考えを大きくし、取り入れるものだということ、自分の人生を作っていく学問だということを考えられた。(S男)

今年はもう一度3年生を受け持った。飛び込み3年だったが、どの生徒も目を輝かせて授業に臨んでくれた。応時の生徒は打てば響く。真剣に働きかければ真剣に応えてくれる。授業で勝負してくれるすばらしき応時中生たちに感謝しながら、私の修業は継続中である。

(2006年2月6日)

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●栗木 智美
(くりき・ともみ)

愛知県小牧市立応時中学校教諭。国語科担当。「授業は真剣勝負」をモットーに、グループ活動のある学び、仲間との協同的な学びの授業を追究中。すべての生徒の表情が輝き、集中して学び合うエネルギッシュな授業づくりには定評がある。その授業力は岳陽中の前校長佐藤雅彰氏や「東海国語教育を学ぶ会」の石井順治氏も絶讃している国語教師である。