愛される学校づくり研究会

桜梅桃李を愛す

★今回から寄稿させていただくことになりました新城市教育委員会教育長の和田守功と言います。「桜梅桃李(おうばいとうり)」とは、ありのままの個々「子供の姿」です。作為的なはたらきかけによってつくられた姿ではなく、無作(むさ)の、もともと一人ひとりの子供のもつオンリーワンの命の輝きが表出された姿です。そんな姿をこよなく愛し続けていきたいというのが私の思いです。そうした考えから、タイトルを「桜梅桃李を愛す」としました。私の教育に対する拙い思いの一端を皆様方にお伝えすることができればとの思いでペンをとらせていただきます。1年間、よろしくお願いします。

【 第1回 】百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の喜び

まもなく百花繚乱の春が訪れます。わが街、新城市の里山の風景にも、緑色の占める割合が日ましに増えてきています。光の春から花の春に変わりつつあります。庭先のペンペングサやホトケノザがいち早く花を咲かせました。梅の花が咲きそろい、桃の花もちらほらと咲き始め、桜もつぼみをふくらませています。「世界に一つだけの花」の歌詞ではありませんが、一つ一つ違う種類の花ですが、梅は梅、桃は桃で、それぞれに精一杯に花を咲かせています。小さい花や大きな花、白い花や赤い花、一つとして同じものはありません。自然界のなかで、特別なオンリーワンの存在なのです。生きとし生けるもの、命あるものの自然の姿は、すべて、それぞれ個々の命が輝く「桜梅桃李」の存在なのです。

「桜梅桃李(おうばいとうり)」の認識は、組織で指導的立場にある者、あるいは、学校で子供の教育に携わる者として、きわめて大切なことです。サクラもウメも、モモもスモモも、冬の厳しい風雪に耐えた証として、爛漫の花を咲かせます。花は枝に保たれ、枝は幹につながり、幹は大地に張り巡らせた根によって支えられています。花、枝、幹、根が、しっかりとつながり、やがて芽ぶくであろう葉とも深くかかわりあって、梅は梅、桜は桜で、それぞれに春の日差しに輝く花を咲かせることができるのです。この命あるものの一つ一つ、すべてが、すばらしい個性をもっているというのが自然のあるがままの姿であるという事実を、まるごと受容することから、教育が始まります。

一人ひとりの「よさ」は、「桜梅桃李」のスタンスで子供を見ることにより、それぞれの輝きとして見えてきます。この子には、この子なりの花を咲かせる命があり、あの子には、あの子なりの、ほかの子とは違う花の美しさがあります。今は、まだつぼみかもしれないけれども、いつか必ず咲く花です。この子供観、この信念こそが教育の原点ではないかと思います。逆に、どの子供もみんな同じように見えるようでは心配です。また、どれもすべて同じような花を咲かせようというのにも無理があります。
 桜梅桃李を愛する温かい目で見ていると、今、草木が何を欲しているのかを感じることができます。水が欲しいのか、肥料が必要なのか、それとも、何もしないで見守っているのがいいのか、花を咲かせるのにふさわしい手立てが見えてきます。ふさわしい手立てを施したときに、桜梅桃李は、もっとも美しく百花繚乱の花を咲かせ、見る者を喜ばせてくれます。

命の成長の過程を見るのは大きな喜びです。枝から花芽がめばえ、花芽がつぼみとなり、ふくらみ色みがつき、やがて開花するという、花の咲く過程は、見る者をワクワクさせます。子供の成長も同様です。人間の生涯のなかで、もっとも変化し成長する時期に、教師は、子供とかかわることができるのです。そして、そのかかわりのなかで、感動、創造、貢献の喜びを味わうことができます。こんな職業がほかにあるでしょうか。教師とは何という幸せな職業でしょう。
 宮澤賢治が「生徒諸君に寄せる」詩(1927年)のなかで述べています。教師として過ごした「この4か年が、どんなに楽しかったか。わたくしは、毎日を鳥のように教室でうたってくらした。誓って云うが、わたくしは、この仕事で疲れを覚えたことはない。」と。教師・賢治の子供への熱い思い、教育に携わる者としての喜びが伝わってきます。続いて「新しい風のように、さわやかな星雲のように、透明な愉快な明日は来る。」、そして、「誰が誰よりどうだとか、誰の仕事がどうしたとか、そんなことを云っている暇があるのか。さあ、われわれは一つになって。」と述べています。至高の喜びが得られる教育という職に奉じていて、目先の一人よがりの、ちまちました事柄にとらわれて、愚痴や文句を言っている暇はない。みんなで心を一つにして教育に邁進しようではないかという、賢治の強いメセージです。

教師の「人間観」「子供観」は、教育にとって、もっとも大切なものの一つです。昨今、日本中で議論されている、学校現場の「いじめ」「体罰」「暴力指導」の問題においても、帰するところは、教育者、為政者、日本人の、「命をどうみるか」「人間をどうみるか」「子供をどうみるか」のアイデンティティー、哲学に集約されるのではないかと思います。大上段にかざしてものを言うようで恐縮ですが、私達は、幾度となく、そうした事実を、学校や社会で、まのあたりに見てきました。教育現場では、担任が変われば子供が変わり、校長が変われば学校は変わるのです。逆に、変わらないようであれば、教師の存在感を疑います。それほどに、教師の職責は重く、自身の修養が求められるところです。それゆえに、どんなに苦労しても、子供が成長した姿を見せた時の喜びはひとしおです。

学校現場において、年度末・年度初めの1日は、時間が凝縮されて、さまざまな用務が、教師にどっと押し寄せてきます。「やらねばならないこと」「やるべきこと」「やりたいこと」などが、これでもかこれでもかというほど、次から次へと湧き出てきます。忙殺されそうな日常のなかで、ふと目線を遠くの山の稜線や天空に浮かぶ雲にやって、大きく深呼吸してみたいものです。新学年のスタートに、希望に胸ふくらませる子供や親の顔が浮かんでくることでしょう。子供の喜ぶ姿を思い描くとき、大人には新たな活力が生まれてきます。多用のなかで目先のことばかりにとらわれていると、いつのまにか、心まで近視眼になってしまいます。そうならない対策を講じることが必要です。
 教師自身が、賢治の言う「新しいさわやかな風」になったとき、教室の風景は一変します。「桜梅桃李」を胸に、眉あげて、「教育が楽しい」「子供といるのが喜び」と言えるようになれば、未来が開けるのではないでしょうか。百花繚乱の喜びを味わいたいものです。

(2013年3月18日)

準備中

●和田 守功
(わだ・もりのり)

人間・日本文化・日本酒(やまとごころ)をこよなく愛し、肴を求めて、しばしば太平洋に。朝一番に煎茶を飲み、毎朝、自分で味噌汁をつくる。山野草を愛でる自然派アナログ人間。現在、東三河ジオパークを構想中。自称、新城市観光広報マン。見どころ・秘所を語らせたら尽きない。
教育では、新城教育で「共育(ともいく)」を提唱し、自然・人・歴史文化の「新城の三宝」や、読書・作文・弁論の「三多活動」を推奨している。
新城市教育長をはじめ、愛知県教育委員会など教育行政に16年間携わっている。
また、中学校長をはじめとして、小学校で13年間、中学校で11年間、学校現場で教職を務めてきた。