★このコラムは、「小牧市教育委員だより」での副島孝先生(前小牧市教育長)の発信を楽しみにしておられた皆さんからの要望で実現しました。「これまでのように学校教育や現場への思いを語り続けてください」という願いをこめて「黙さず語らん」というタイトルにしました。
【 第56回 】いじめ報道問題から考える
大津市でのいじめ問題が集中的に報道されています。中学生の自殺という痛ましい事実があったわけですから、その後の対応についていろいろと論評されることは仕方のないことです。学校や教育委員会がこの問題を正面から受け止めていたのか、疑問な点は多々あります。ただ私自身は、報道からの情報だけで論評することには批判的というか、自制的なのです。それは、私自身の経験や他の報道例から、実態を知らない者が論評することによって問題をこじらせる場合が多いと考えているからです。
いじめの問題は、学校では最大の関心事です。なにせ子どもの命にかかわることさえある問題だからです。その点からいうと、今回の対応には問題があったと言わざるを得ません(と、これも報道を前提にして書いています)。今やあからさまに見えるような形でのいじめは、ほとんどありません(これに関しても、報道では見えていた問題だとみなしています)。だからこそ、発見が難しいのです。発見は難しいという前提でいじめ問題をとらえなければ、発見どころか対応やましてや解決は困難だと考えます。
マスコミは、印刷や放送の時間に追われながら、情報を集め報道します。これには同情します。いろいろな情報の裏を取ることは、事実上不可能なのかもしれません。しかし、一度報道されたことは、ひとり歩きし始めます。他の報道機関も競争のように(実際に競争なのでしょうが)、新しい関係者の証言などを報道し出します。前よりもインパクトのある情報がほしいわけですので、内容はエスカレートします。その証言がどこから出ているのか、つまりどういうスタンスからの証言なのかが明らかにされることは、まずありません。
絶対にこうだという確信ある判断がないと、当事者でさえ本当はこうなんじゃないかと心配になるほどです。その段階では、必ずのように報道を元にした(もちろんそれをすべて真実だと断定した)非難の電話など抗議行動が始まります。議会などでも、報道を材料にした質問もあることでしょう。今回の問題がそうだと言っているのではありません。この問題に関しては、私も報道で知るだけの情報しかありませんから。
報道に関しての私の認識は、個人的体験だけから来ているのではありません。実は、『教育問題はなぜまちがって語られるのか?』(広田照幸、伊藤茂樹、日本図書センター)で紹介されていた『でっちあげ』(福田ますみ、新潮文庫)を読んだからでもあります。福岡「殺人教師」事件の真相と副題にあるように、2003年に「史上最悪の殺人教師」として、全国規模で報道された事件への事後取材記録です。
全くの大誤報事件とも呼べるこの報道がどのような経緯で行われたのか、またそれによって傷ついた被害者の人権がどうなったのか、それに対して報道した側の対応はどうであったのかを知ると、恐ろしいほどです。しかし、一度報道されると報道に接した側には、あるイメージが刷り込まれます。そのイメージが変わることは、まずありません。たとえ、この事件のように、裁判で結果が明らかになってもです。まして、現在は、新聞やテレビのようなマスコミだけではありません。ネットの世界では、それこそ真偽も確かでないし、確かめようもない情報が大量に飛び交いますので、影響はかつての比較ではないでしょう。
だからといって、報道がいけない、マスコミはどうしようもない、などと言っても仕方のないことでしょう。マスコミの報道は、その習性とも言える煽りたてから自由ではない、ということを認識することから始めるしかないでしょう。そして、確かでもない根拠を元にもっともらしい意見を表明するする人を軽蔑するしかないでしょう。報道に関するリテラシーを、報道する側も報道を受け取る側も身につける必要があります(とても難しいことですが)。
いじめ問題から話題がずれたようですが、実はいじめにも似たような構造があるように感じられます。確かな情報ではないのに真に受けてエスカレートしてしまう、本当にそうかと立ち止まって考えるより、その場の空気に乗ってしまう(内田樹は「そのような『できのわるいもの』に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの『いじめマインド』を強化している」と指摘しています)、これらもいじめを、時には死を招くような事態にまでエスカレートさせてしまいます。逆に、いじめを見つけたり、諌めたりすることは容易なことではありません。容易ではないと覚悟するところから、この問題を早期に見つけ、解決する道が開かれると考えます。
(2012年7月16日)